NHK大河劇,這回、主人翁的故事転來到長州藩了
こんにちは。今日は平成27年(2015)1月26日(月)です。
昨日は仕事で京都へ行っており、大河ドラマ「花燃ゆ」第4回は観ることができませんでした。
予告では松陰の黒船密航失敗、それを止められなかった梅太郎が責められる場面、牢獄のシーンなどがあったようですから、物語は進展したようですね。土曜日の再放送で鑑賞したいと思います。
今回は、吉田松陰の下田踏海のあたりをご紹介してみます。ドラマでどう描かれたかわからないのですが、史実の流れとしてご参考にして頂ければと思います。
下田での黒船密航の際、松陰は一人の弟子と一緒でした。金子重輔(重之輔)です。金子は天保2年(1831)長門国紫福村の商人の家(萩城下の染物屋とも)に生まれました。松陰の1歳年下です。
重輔は足軽金子家の養子となり、長州藩家老・浦靱負(ゆきえ)の家臣で、学識の高さで知られた白井小助らに接します。
嘉永6年(1853)、23歳の時に江戸出役を命じられて、桜田の長州藩邸で雑役に就きました。ちなみに白井は吉田松陰とも親しい仲でした。
江戸で金子は鍛冶橋外にあった鳥山新三郎(確斎)の塾「蒼龍軒」に出入りするようになり、ほどなく松陰と出会ったようです。
ここは2年前、松陰が脱藩しての東北行を共にした宮部鼎蔵や江帾(えばた)五郎らも出入りしていた所で、松陰とは馴染み深い塾でした。
金子は松陰がロシア軍艦に密航しようと長崎に向かった折、その後を追おうとしたほど黒船密航に共鳴しており、ペリー再来航の折に、松陰に強く密航を勧めたのはむしろ金子ではなかったかといわれます。
松陰が黒船密航計画を打ち明けた時、周囲の友人らは止めましたが、決意が固いことを知ると、宮部鼎蔵は自らの刀と松陰のそれを交換して励まし、鳥山新三郎は松陰が赤羽橋で金子と合流して出発するまで、見送りました。3月5日のことです。
翌日夜、横浜に至った松陰は、松代藩陣屋に師の佐久間象山を訪ねます。横浜沖の黒船にどうやって近づくかを相談すると、象山は共に漁師に扮して夜陰に乗じて近づこうと二人に提案。
そして象山が手配した船に乗り込みますが、いざとなると船頭が拒み、やむなくその夜は松代陣屋に泊まりました。
数日後、象山の紹介で浦賀の組同心に頼み、水蒔積み込みの官船に乗せてもらって近づこうと考えますがうまくいかず、船頭に酒を飲ませ、大金を与えて船を出させますが、黒船に近づくことを船頭が怖がり、これも頓挫します。
そうしているうちにペリー艦隊は下田へと移動。13日、松陰は象山と別れ、金子とともに下田に急ぎます。
18日に下田に着いた松陰は、黒船が来ていることを確認。蓮台寺温泉に赴き、医師の村山行馬郎(ぎょうまろう)家に泊めてもらって皮膚病を治療しました。
金子は下田に留まり、松陰は蓮台寺と下田を行き来しながら、異国人に密航趣旨を書いた「投夷書」を渡そうとしますが、機会を得ません。
24日、ペリー一行が下田の了仙寺で日本側から饗応を受け、取締りが厳しくなります。松陰らは宿屋から宿泊を拒まれました。
27日、柿崎海岸で散歩する夷人にようやく「投夷書」を渡すことに成功します。その夜、松陰らは海岸にあった小舟に乗り、沖の艦隊を目指しました。盗難除けに櫂を固定する杭が外されていたため、二人は褌や帯を解いて櫂に結び付け、漕いだといわれます。
二人は最初、ミシシッピー号に接舷しますが、船には言葉を解する者がいないので、さらに沖の旗艦ポーハタン号に向かうよう指示されました。二人は苦労してようやくポーハタンに至り、水兵と争いながら飛び移ったため、刀や荷物を載せた小舟を失ってしまいます。
ポーハタン号には日本語がわかるウイリアムスがいて、松陰の渡した「投夷書」もありました。
ウイリアムスは松陰の希望に理解を示しますが、「和親条約を結んだ以上、相手国の法律を破ってあなた方を私たちが連れていくわけにはいかない。間もなく両国は往来できるようになるので、それまで待つように」と諭され、ボートで送り帰されます。
松陰らは荷物を載せた小舟を失ったことから、間もなく密航は発覚すると観念し、夜明けに自首を決意。柿崎村の名主・平右衛門を訪ねました。平右衛門からの連絡で下田番所から役人が来たのは、丸一日を経た夜であったといいます。
下田番所に連行された二人は、宝福寺で取り調べを受け、一旦、長命寺の観音堂に預けられます。翌日から本格的な取り調べが始まると、平滑(ひらなめ)の狭い獄舎に移されました。
しかしここで松陰は、寝ずの番をする獄卒相手に、なぜ夷狄を警戒すべきなのか、人として大切にすべきものは何かなどを話しかけると、次第に彼等の心が動かされ、しまいには松陰の無念に涙を浮かべて同情したといいます。人の心を動かす松陰らしさがこんなところでも発揮されていたようです。
4月8日、江戸の八丁堀同心二人と岡っ引き五人が二人の身柄を受け取り、江戸へ護送します。4泊5日の道中、警備は厳重でしたが、同心らは松陰の意図を理解していたのか、扱いは極めて丁重で、休憩ごとに茶菓を勧められたといいます。
この時も松陰は、夜、番をする者にさまざまな話をし、それを聞いた者たちは「生まれてこの方、こんな愉快な時はなかった」と言ったといいますから、一体どんな話をしたのでしょう。やはり松陰の言葉には、人を魅了する何かがあったのかもしれません(辰)
写真は吉田松陰と金子重輔像、金子重輔旧宅跡(以上、萩市)、宝福寺、吉田松陰拘禁の地(長命寺観音堂跡)、拘禁した土蔵の窓枠(以上、下田市)【いずれも古い写真です】
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