黃金右臂鄭兆村萌生退意,近一步想,要去哪裡?
這麼優秀到天花板的運動員,我想是老師教練們一輩子驕傲。
也是認識他的人非常惋惜的議題,但我想說:奧運延期一年對於田徑為運動之母的選手,傷害非常深,原因是運動訓練上,要把選手巔峰在未明確目標上ㄍㄧㄥ在那邊,實在非常困難,尤其田徑項目是全世界最多人比賽競技的項目之一,訓練是科學,巔峰是週期,不可能隨時可以發酵。 所以,我為鄭兆村感到心疼。
這讓我想起「運動員學習侷限」。
體育班制度,
是一個非常非常非常痛苦的議題,因為這是「專任教練權益」利害關係,也是過去時代為了讓運動員退役後的輔導機制所設立「治標不治本」方式。PS:不見得優秀運動員就可以考上,監察院曾經對優秀運動員爭取專任教練甄試可能性。
專任教練立意良善,要給個讚!
但是沒有考慮到,每年有多少四級到一級運動員退役?在人口遽減情況下,縮班、學校退場,那,10年後呢?
運動員退役並不是國家的工作
國家工作應該是建立制度,早應該讓運動員有第二專長,讓社會企業納入共同擁有,當企業擁有運動員、教練及相關從業人員時,就能成為該該企業重要資產(如同勞工),另,運動員可以繼續為國爭光,為企業爭光,同時間,這些頂級的運動員從業人員也有社會保障(勞動保護),而且,單項協會與奧會與企業關係可以更密切,所獲得的資源可以更完整。
日本奧運委員會研究
根據2000年制定的《體育促進基本計劃》,日本奧會(以下簡稱JOC)發起了JOC黃金計劃專案)JOC的人力資源部表示,"我們的目標是在希望有一個安全競爭的環境的頂級運動員與希望通過招聘和支持他們在公司內部創造新活力的公司之間建立雙贏關係,"他說,運動員與公司的關係不是基於贊助商,而是基於雇傭合同。
他們的黃金計畫跟我們的奪牌黃金計畫完全背道而馳,JOC考慮是提高國際競爭力,不只於奪牌,包括為企業和體育創造新環境,包括僱用體育運動員。我們則是不斷提升預算在黃金運動員身上,那麼,還沒成為黃金的運動員呢?以及,當黃金運動員失敗了?他們要去哪?除了當老師、教練,他們有就業技能?
國外有關於體育研究
許多先進國家不會將運動員學習(體育Physical Education)變成唯一專業,這也是各國奧委會都有運動員退役輔導之計畫。
當我閱讀到日本1961年提倡運動振興法之後,日本體育開始有了很大變化,雖然他們曾經在1980年代發生經濟泡沫,但各位可以發現,1969年後日本箱根接力賽冠軍學校,不會看到「日本東京體育大學」,而讓全日本人開始在體育教育以「終身運動」為主幹,意即向下扎根,自然而然運動成為社會每個人必要生活。
因此,這些頂級運動員不會只懂「競技體育」,更有其他學科之一技之長未來可以與企業連結。
美國沒有體育班
但是美國各級學校願意以高額獎學金來提供優秀運動員就讀,為校爭光,光是2016年全美大學體育聯盟,每年約提供15萬學生運動員、共27億美元獎學金。
另,美國對於體育運動項目上是縮減經費,整體來說,因美、澳、英、日、 韓的職業運動興盛,因此政府支持方式較少,企業投入資源較多,是與我國及中國大陸較為不同之處(張少熙署長,99)。易言之,運動競技經費變成軍備賽時,我們與中國大陸有什麼不同?
究竟為什麼美國日本都可以成為運動強國?
因為運動是社會的,
政府、學校機構上大力推廣體育教育情況下,讓社會接受運動是生活而有運動事業成立的價值,成為聚落,成為產業,運動菁英社會地位高,收入自然也可以成正比。
相較我國?
從這次奧運60多位選手,我們可以知道多半都是體育相關科系畢業或就學中,當運動員只被限定在一個框架是不是我們也剝奪了他們的學習空間?那,當我們成為父母時,小孩子成為專業運動員要送進體育班?要送進沒有保障的國訓大門?
這樣問題,值得我們思考。
最後,身為田徑學長的我,我想跟東奧田徑運動員們敬禮,謝謝你們,請繼續加油。
兆村,士峰加油!
同時也有2部Youtube影片,追蹤數超過12萬的網紅超めてお,也在其Youtube影片中提到,#PS#プレステ#バカゲー 特殊作戦の構成要素である、ゲリラコマンドによる奇襲攻撃は、古くから見られてきた。ナポレオン戦争中の半島戦争では、フランス軍の侵攻にスペインやポルトガルの民兵が対抗し、「ゲリラ」の語源となった。また第二次世界大戦では、イギリス軍のブリティッシュ・コマンドスやドイツ国防軍のブ...
英識教育招聘 在 羅廷瑋 Facebook 的最佳貼文
全美語外師進駐校園進度更新報告
#東南區從0所學校變12所學校
#原本台中市是六都最少外師
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今年的外籍老師目前正在招聘,老師有可能還需要跑流程甚至需要居家檢疫完後才可以進去學校,有的要等到五月才開始
#東南區國小外籍師資持續追蹤
第二語言對成人來說是職場的加薪利器,對孩子來說則是開啟認識世界大門的鑰匙。
因此許多爸爸媽媽都十分關注語言學習的相關問題,包含哪一所學校有外籍教師也是家長們經常來問小羅的問題,為的就是要讓我們的孩子贏在起跑點。
小羅從過去就極力爭取,讓全美語外師進駐校園,培養孩子美語能力也陪著孩子一起學習一起成長。現在也有越來越多學校都有外籍教師啦,最新的校園外師名單就在圖片裡面!
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#外師不佔本師名額
再次強調增聘外籍並不會佔用本國老師的名額,而產生排他性。也不是外國的月亮比較圓,而是希望透過外師的教學讓孩子一定得使用英語跟老師溝通;也想藉由外國老師的教學經驗把國外鼓勵孩子獨立思考、自行尋找答案的模式帶給孩子。
#因為我是奶爸更重視教育
#爭取外師全美語教學
#這才是我想做的政治工作
英識教育招聘 在 百工裡的人類學家 Facebook 的精選貼文
在香港中文大學任教的美籍人類學家Gordan Mathews是以研究「重慶大廈」與「全球化」聞名的學者,在香港局勢變化後,他的動態引起學界關注。
這篇來自【明報新聞網】的文章,分享了他將繼續留港執教的消息外,也介紹了他投入香港文化人類學研究的歷程。這帶我們進一步思考,國國人類學者到台灣進行田野調查研究與教育的價值會是什麼?
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數數手指,本來即將屆滿大學退休年齡的他來港教書二十七年,初來時已是步入中年的三十九歲,學生喜歡親切地叫他Gordon。香港是他人類學事業的起步,當年本科畢業後,他一心想離開美國,臨時讀個教育課程,便隻身前往日本札幌當英語老師,「美國人人都會發誓要如何成功,在日本倒像怎樣也沒關係,其實幾開明的」。度過十年快樂時光,一天他忽爾思考這種生活能否終生,「『What did you do today?』『I, aet, fish!』『Oh! Very good!』——到五十歲還繼續做這樣的事?不了!」便跑回美國進修,初次接觸人類學,以人生的意義為研究題目,順利拿下碩士和博士學位。下一站為何選擇香港?因為看見了中文大學的海外招聘。
初來報到,Gordon被指派教授語言與文化、語言與社會等不熟悉的學科,吃吃笑問要不要在報紙上公開自己的糗事——一個學生在外國讀完一模一樣的科目後,回來跟他投訴所教內容南轅北轍。經歷八年,終於辛苦建立了一些與自己研究興趣相關的科目,比如「人生的意義」和「全球化與文化」。
香港人認識Gordon Mathews,除因譯名「高登」夠地道,更因重慶大廈在反修例運動中洗脫污名的多年前,這位學者已深入研究,頻頻穿梭搭訕甚至過夜,從無數訪談中發掘水貨商人、逾期居留者、無國籍難民與尋求庇護者的故事,寫下成名作。而其實,Gordon初次踏足重慶大廈來得更早——當年離開日本返回美國前,他背上背包環球旅遊,就在中英聯合聲明簽署的前一年來到香港。沒想過與這城市有將來的他,並無仔細察看城裏人臉上的憂慮,至今記得的只有從渡輪上看過的日落。那次因想省點旅費,選擇在重慶大廈落腳,這個多年後他筆下謹慎論述的低端全球化中心,當時對他僅是個對人說起自己已婚,會被讚歎過於老實的地方。
(以上引用網頁原文)
https://news.mingpao.com/pns/%e5%89%af%e5%88%8a/article/20210221/s00005/1613844354373/%7b%e6%89%b9%e5%88%a4%e6%80%9d%e8%80%83%e9%81%94%e4%ba%ba%7dgordon-mathews-%e7%95%99%e6%b8%af%e5%9f%b7%e6%95%99-%e6%98%af%e5%80%bc%e5%be%97%e7%9a%84%e5%86%92%e9%9a%aa
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#PS#プレステ#バカゲー
特殊作戦の構成要素である、ゲリラコマンドによる奇襲攻撃は、古くから見られてきた。ナポレオン戦争中の半島戦争では、フランス軍の侵攻にスペインやポルトガルの民兵が対抗し、「ゲリラ」の語源となった。また第二次世界大戦では、イギリス軍のブリティッシュ・コマンドスやドイツ国防軍のブランデンブルク部隊など、敵勢力の後方地域においてコマンド部隊による奇襲攻撃などが展開された[3]。
冷戦期には革命闘争の一環としての不正規戦争が多発し、ベトナム戦争に介入したアメリカ軍でもこれへの対応を余儀なくされたことから、特殊作戦部隊の整備が進むことになった。しかし陸海空軍の主流の将校は特殊作戦への理解が乏しく、特殊部隊を異端視する向きが強く、特に他軍種との統合作戦には困難が伴った[3]。一方、東側諸国では、大戦中のパルチザンの経験をふまえて、不正規戦争への介入の必要もあり、大規模な特殊部隊が整備されていた。朝鮮人民軍は特に特殊部隊を重視しており、韓国国防白書2008年度版によると、過去2年間で6万人の増員をし、約18万人の特殊部隊を保有しているとされている[4][5]。
このような軍隊の特殊作戦部隊とは別に、1960年代後半より、アメリカ合衆国の警察では、テキサスタワー乱射事件のような凶悪犯罪に対処するためのSWAT部隊の創設が相次いでいた[6]。また1972年のミュンヘンオリンピック事件を契機として、大陸ヨーロッパでは西ドイツ国境警備隊のGSG-9やパリ警視庁のBRI-BACのように、単なる凶悪犯対処にとどまらず、対テロ作戦にも対応可能な法執行機関の部隊が発足した。これに対し、アングロサクソン諸国では対テロ作戦は軍が担当することになり、イギリスでは陸軍特殊空挺部隊(SAS)に対革命戦部隊(CRW)を編成し、1980年の駐英イラン大使館占拠事件でも出動した[7]。またアメリカ合衆国でも、SASに倣ってデルタフォースが発足した[8]。しかし軍事作戦では脅威を排除するために持てる限りの火力を行使することが当然とされるのに対し、法執行活動の場合、武器使用は最低限に抑えなければ後の捜査に支障を来すうえに裁判所でも指弾を受けかねないことから、ロサンゼルスオリンピックを控えた連邦捜査局(FBI)では、独自の対テロ作戦部隊として人質救出チーム(HRT)が編成された[9]。
日本における特殊部隊
自衛隊
空挺レンジャー課程
冷戦期
陸上自衛隊では、まず創設直後の1954年9月に調査学校を設置して[注 1]、旧陸軍中野学校の卒業生を教官として招聘するとともにアメリカ陸軍特殊部隊とも連携し、特殊作戦に関する研究に着手した。1956年、元F機関長である藤原陸将補が学校長に補されると、敵後方地域等で情報の獲得や遊撃活動等に任ずる幹部を育成する対心理情報課程(現在の心理戦防護課程)が開講されたが、この課程は当初、直截的に"SF課程"(Special Forces)と称されていた[11]。
これとは別に、正規戦での遊撃戦要員育成のため、1956年には、富士学校でレンジャー課程が開始された[12]。1958年にはエアボーン部隊として第1空挺団が編成されたが、こちらも精鋭部隊として、特殊作戦への投入も想定されていた[13]。また北部方面隊でもソビエト連邦軍の上陸に備えて遊撃戦の準備を進めており[注 2]、1961年には、まず倶知安駐屯地において北部方面総監部第三部に特別戦技訓練隊が設置され、1962年には名寄駐屯地に移駐し[12]、1971年には真駒内駐屯地で冬季戦技教育隊(冬戦教)と改称された[15]。
この他、海上自衛隊では第二次世界大戦に敷設された機雷や不発弾、海中廃棄火薬類に対する爆発物処理(EOD)を担当する水中処分員の育成を急いでいたが、当初、アメリカ海軍ではEOD課程に外国人留学生を受け入れていなかったことから、かわりに、1957年より、フロッグマンを養成するUDTra(Under Water Demolition Training)課程に留学生を派遣していた。このUDTra課程はNavy SEALsの選抜訓練の前身にあたるもので、極めて過酷であり、海自からの最初の留学生は訓練中に殉職している。その後、1964年よりEOD課程への留学生受け入れが開始されたことから、UDTra課程への派遣は行われなくなった[16]。
冷戦後
特殊作戦群(SFGp)
1995年に閣議決定された07大綱において、冷戦終結など国際環境の変化に対応して、防衛力の見直しが図られることとなった。13中期防に基づき、2002年には水陸両用作戦部隊として西部方面普通科連隊(WAiR)が[17]、そして2004年には陸自初の特殊部隊として特殊作戦群(SFGp)が編成された[18]。またこれらに先行する2001年には、能登半島沖不審船事件を契機として、海上自衛隊でも自衛艦隊の直轄下に特別警備隊(SBU)を編成している[19]。
2004年に制定された「特殊作戦隊員の範囲等に関する訓令」において、陸上自衛隊における「特殊作戦隊員」は、下記の4つと規定された[20]。
空挺基本訓練課程及び別に指定する特殊作戦業務の課程を修了し、かつ、陸上自衛隊の特殊作戦群に所属する陸上自衛官
空挺基本訓練課程を修了し、かつ、陸上自衛隊の特殊作戦群に所属する陸上自衛官のうち別に指定する者(前号に規定する者を除く。)
別に指定する水陸両用の課程及び別に指定するレンジャーの課程を修了し、かつ、陸上自衛隊の西部方面普通科連隊に所属する陸上自衛官(当該訓練課程を修了した隊員のみで編成される小隊の隊員のうち別に指定する者に限る。)
水陸両用課程を修了し、かつ、陸上自衛隊の西部方面普通科連隊に所属する陸上自衛官のうち別に指定する者(前号に規定する者を除く。)
ここで言及されている「当該訓練課程を修了した隊員のみで編成される小隊」は、「特殊作戦隊員の指定等について(通知)」において「西部方面普通科連隊の本部管理中隊の情報小隊又は普通科中隊の小銃小隊(B)」と記載されている[21]。
また2011年には、航空自衛隊でも、対ゲリラ作戦の研究および基地警備隊への教導を任務とする基地警備教導隊(BDDTS)が発足した[22]。
なお、西部方面普通科連隊は2018年に編成された水陸機動団の第1水陸機動連隊に改編されている。
警察
日本の警察では、警備部にテロ事件の対処を任務とする部隊が編成され、刑事部に誘拐事件や人質立てこもり事件など、凶悪事件の捜査を任務とする部署が設置されている。また一部の県警察では警備部と刑事部から人員を選抜し、合同部隊を編成している[23]。
警備部
警視庁機動隊の緊急時初動対応部隊(ERT)
1977年のダッカ日航機ハイジャック事件を契機として、警察庁は、秘密裏に警視庁と大阪府警察に対テロ特殊部隊の編成を下命し[24]、警視庁では第六機動隊特科中隊(SAP)、大阪府警察では第二機動隊零中隊として発足した。大阪府警察の部隊は1979年の三菱銀行人質事件で出動し犯人を射殺、また警視庁の部隊は1995年の全日空857便ハイジャック事件で突入する北海道警察部隊の支援にあたった。そして1996年、警察庁は特殊部隊の存在を公表するとともに、特殊部隊(SAT)として改編し、東京・大阪以外にも北海道警察、千葉県警察、神奈川県警察、愛知県警察、福岡県警察の各警備部にも発足することとなった。2005年には沖縄県警察にも編成されるとともに、各地の部隊も増強された[25]。
またSATを補完するテロ対処部隊として、各警察本部機動隊には銃器対策部隊、NBCテロ対応専門部隊、爆発物処理班が設置されている[26]。このうち銃器対策部隊は、上記の特科中隊・零中隊の創設に先駆けて、1968年の金嬉老事件を契機に警視庁や大阪府警察などに発足した特殊銃隊を前身としており、1996年に常設の部隊として増強改編された。埼玉県警察RATSのようにレンジャーに準じてラペリング降下などの突入能力を備えた部隊もあるほか、警視庁機動隊では、銃器対策部隊からの選抜によって緊急時初動対応部隊(ERT)を編成し、即応体制をとっている[27]。
刑事部
熊本県警察刑事部の人質立てこもり部隊
警視庁刑事部では、1963年の吉展ちゃん誘拐殺人事件での人質救出失敗を教訓として、1964年に特殊犯捜査係を設置した。これは捜査第一課のなかでも、誘拐や立てこもり事件、企業恐喝や業務上過失致死事件などを扱う部署であり、高度な科学知識および捜査技術に通暁した専任捜査官によって構成されていた。警察庁もこの施策に注目し、1981年3月までに全ての警察本部に設置された[28]。
このような所掌をもつことから、刑事としての捜査だけに留まらず、人質の身に危険が迫った場合の最終手段として、突入制圧も担当するようになった[29]。警視庁では、1992年に、捜査第一課の捜査官とともに、SATから選抜した人員を加えて、突入班を編成した。これはSAT隊員の射撃技術などを即戦力として期待した起用であった[30]。
近年では多くの警察本部で刑事部に突入班が編成されているが、名称はそれぞれ異なっており、警視庁では「SIT」、大阪府警察では「MAAT」、埼玉県警察では「STS」、神奈川県警察では「SIS」、千葉県警察では「ART」と呼ばれている。編成方法も警察本部により異なり、小規模な警察本部では、捜査第一課だけでなく、機動捜査隊や、更に機動隊員も加えて突入班を編成している場合もある[23]。
海上保安庁
海上保安庁では、海上テロ事案などに対処するため、1985年に関西国際空港海上警備隊(海警隊)、また1992年にはプルトニウム輸送船護衛のために警乗隊を発足させていた。そしてこれらを統合改編して、1996年に特殊警備隊(SST)が編成された。
エンディング曲
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グッズ
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英識教育招聘 在 港。故 kongguhk Youtube 的最佳貼文
五年前,位於黃大仙竹園邨的浸信會天虹小學,原是一間只得6班、瀕臨「被殺」的學校,但經校長朱子穎近年積極推行STEM(科學、技術、工程及數學)教育與快樂學習,這間屋邨小學成功轉型,吸引每年超過千名家長慕名而來為子女報讀。
教育的初心
校長朱子穎是個「八十後」,從教育學院(現為教育大學)畢業後,在多間小學擔任老師約十年,主要任教英文科,有時亦兼教數學與常識科。十年的教學生涯,令他漸漸發現,教育界的生態,與自己心中的教育抱負根本是背道而馳:「明明教育應該係快樂嘅,教育應該係體驗嘅,但唔知點解,當一個新老師入咗學校做嘢,就會執行一啲自己都唔相信嘅教學方法。」
「『小朋友,聽日考試喇喎,不如你畀心機啲讀書啦,校長就會好開心』,你試諗吓呢句說話有幾可怕?首先,你同我都超唔鍾意、有負面嘅情感,對於要考試,但係你好正面咁鼓勵小朋友做好啲。」於是,他決心要扭轉這種為考生而鼓勵操練的教學模式。
用創意科技來改革
五年前,在機緣巧合下朱子穎得悉瀕臨「殺校」的天虹小學正在招聘校長,便決心放膽一試:「成日都話創意科技可以改變好多嘢,係咪可以喺呢度實踐?如果呢個概念係正確嘅,咁喺最唔可能嘅地方,就可以發揮佢嘅光芒喇!」
回憶起第一天上班,朱校長仍覺得十分有趣:「五年前我第一日返工時,其實我係全校年紀最細,啲老師都大過我,有啲老師出嚟教書我都未出世。」除了要帶領一班年紀比自己大的老師,他最深刻的是破舊的校舍:「最記得嘅係,我第一日返工,呢間學校畀我嘅感覺係一間鬼屋,甚至試過借出校舍畀人哋拍電影。好感恩,五年後再有人借場拍電影,但今次係講夢想。」
五年下來,他不但在校內推行「電子書包」計劃,小朋友只需要帶電腦而不用帶書本上學,亦有推動3D打印和程式編碼等,校園亦有一個「Lego室」,放滿大大小小的Lego,讓學生小息及課餘時間,盡情發揮創意,用Lego砌出心中的圖畫,大力推動STEM教育。
學生自選學習
此外,他又於去年展開「Dream Starter」計劃,讓學生上午留在課室上課,下午就由他們自行決定學習甚麼,由老師找來社會上不同界別的人,教授小朋友想學的課程:「其實『課程』呢兩個字,只係解『學習機會的提供』。我哋所謂設計課程嘅人,就應該思考點樣用我哋嘅方法,為小朋友提供更多學習機會。最好嘅方法就係開放我哋嘅課室,同更多業界同學校以外嘅人合作。小朋友有更多學習機會嘅話,我哋嘅課程就會愈來愈寬闊。」
由瀕臨「殺校」到「快樂學校」
經過朱校長一番努力和一眾老師的配合,天虹小學成功轉型成名副其實的「快樂學校」,每年吸引逾千名家長慕名而來,學校亦從五年前的6班增至20班,教師亦由當初的14人增至現今的47人。對此,他特別感激願意改革的教師團隊:「佢哋能夠放低一啲過去成功過嘅教學方法,放低自己做咗廿幾三十年嘅方法,嘗試用另一種方法嚟教育,我好感謝佢哋嘅信任。」
離開為了更大的願景
朱校長任內為天虹小學帶來不少改變,但他決定於本學年完結後就離任,轉到一間貴價私校任總校長,屆時會着手開發一個名為EdMetro的教育程式,提供予本地和外國的學校使用,希望藉此改變整個教育界的大氣候。
離任在即,朱校長最捨不得的是多年來和老師、家長、學生之間建立的信任,在最後的一段時間,他會把五年來在天虹的教學經驗,寫成書和拍成微電影,與教育界分享。
今集《港。故》用7分半鐘,細說了朱校長如何將「鬼屋」般的校舍,改造成小朋友的「快樂學校」,實現了他的「教育夢」。
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